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ナラティブベイスドと社会構成主義

科学的実証主義の医学を標榜するエビデンスベイスド医学(Evidence Based Medicine: 略称EBM)の精神医学領域における限界を克服すべく、その対抗概念としてナラティブベイスド医学(Narrative Based Medicine: 略称NBM)として近年、注目を集めている。

方法論が厳格に規定されているわけではなく、「ナラティヴ・セラピー」という語自体、社会構成主義の一つの医学的姿勢あるいは思想的立場を指しているニュアンスも濃い。

 社会構成主義とは、現実は人々のコミュニケーションの間で言語を媒介にして構成されるものであって、「客観的真実」や「本質」などというものは存在しない、という立場である。芥川龍之介が『藪の中』でテーマとしている世界観であり、ラカンのいう象徴界としての社会という考え方にも通じる。
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物語とセラピー [編集]
物語という概念は、ナラティヴセラピーを考える上で鍵となるものである。私たちは過去の体験を語るとき、それは巧拙を問わず「物語」として語る。また他人の経験も「物語」として把握する。さらに人は物語」を演じることによって人生を生きているともいえる。また、古典的な精神分析などにおいては物語は解釈である。

フロイト派もユング派も、かつての精神療法は、治療者はクライエントの一段上に立っており、間違った物語に囚われている患者を、治療者が正しい物語へと導く、という進展が一般的であった。しかし、社会構成主義によれば、どのような物語になるかは平等な主体どうしの主観の持ち方、すなわち「ものの見方」の問題であり、「正しい」物語も「間違った」物語もなく、ましてやどのような主観にも依拠しない「客観的な」立場から見た解釈や物語も存在しない、ということになる。

治療者と被治療者の平等 [編集]
そもそも患者のことをクライエントと呼ぶようになったこと自体、治療する者とされる者は人間として平等で対等であるという認識に基づく。よって、治療者の役割はクライエントとの対話によって新しい物語を創造することとなり、セラピーの目標は、問題を解決することではなく、新しい物語・解釈による新しい意味を発生させることによって、問題を問題でなくしてしまう、ということに置かれる。

また、治療者の持つべきスタンスも、「病める人々や社会を救いたい」という正義感ではなく、「患者を治す」といった昔ながらの「医は仁術」的な使命感でもなく、愛や親切でもなく、目の前にいるクライエントに対する好奇心である、とされる。

批判 [編集]
しかし、日本の現状では、こうした精神医療にたどりつくクライエントたちは、旧来然たる「患者」として「治療者」に「治してほしい」と欲している場合が多く、治療者の側が一方的にポストモダンな平等意識を持っても、それがクライエント側のニーズと適合していなかったり、通じなかったり、かえって「多額な費用を払ったのに、何もしてくれなかった」というような不満に結びついている実態もある。こうした実態に根ざした批判が存在する。

また、精神科医は専門知識に基づいて薬を処方し、必要なら入院を決断するという権力を持っているわけだから、いくら治療者とクライエントは対等だと言ってみても、結局のところそれは言葉だけのもので、じっさいには欺瞞である、という批判もある。

さらに、現在のDSMやEBMのような、患者の固有性を無視した科学実証主義の行きすぎも問題ではあるが、ナラティヴセラピーのようなNBMが行きすぎると、「精神分裂病などというものは存在せず、社会がレッテルを貼っているだけだ」と主張したR.D.レインら反精神医学の過ちを繰り返してしまうのではないか、という批判もある。

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2009年06月11日 09:15に投稿されたエントリーのページです。

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